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2011年以降のフィクションについて

2011年以降、
震災の影響をどこにも描かない物語は
フィクションを超えた「”単なる”絵空事」になってしまった。


バブル時代に作られたトレンディドラマに一定のリアリティを感じるのは
時代の空気が描かれているからではないか?
例えば、主人公が住んでいる部屋は
バブルとはいえ、おおよそ手が届かない
収入からかけはなれて豪華な部屋であっても
それは浮かれている時代の象徴だったり匂いだったりして。。。
だけど描かれる物語は普遍的な、もっといえば、
なんてことない人の悩みだったりする。

ところが震災は匂いすら描かれなかったりする。
それを背景にすること自体を避けようという
制作者側の、良く言えば「配慮」であり、
悪く言えば「根性のなさ」だったりする。

日本で物語を制作する者として
震災という背景を登場人物なり物語なりセットなりに仕込むことを
「暗い」「重い」・・・もっといえば「危ないから」と
避けてしまうとリアリティを失う時代なんだと思う。

もちろん、闇雲に「震災」を折込めというのではない。
制作過程において、その検討があるだけでも匂いが変わると思っている。
「震災をどうするか?」という検討があるかないか・・・。

制作者側の知識に裏付けされた配慮と、
ここまでは冒険かもしれないけれど行っていいのではないかという
エッジが大切なんじゃないかと。。。最近、フッと思った。
自戒を込めて。

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